写真

朝のブルマン

(コーヒーを飲みながら、つらつら考えました)



−カタカナはアラム語、ヘブライ語の変形?ー

 2013年、シンガポールのJCCで展示した際、会場に見えた日本の
男性(当地で日本語教師、写真の後姿の人)から、奇異な話を聞いた。
「初めて漢字を受け入れた日本列島の住人はユダヤ人、という説がありますよ」
「???」
夫と友人にこの話をすると、二人から同時にインターネットからの抜粋を
もらった。中島尚彦著「日本とユダヤのハーモニー」
ある項にフェニキア文字以降の文字が羅列してあった。アラム語、ヘブライ語の表示に
目が釘付けになった。子音と、子音の一部を母音として、組み合わせた文字が、
カタカナに似ている。

 「この地に文字はなく、3世紀頃中国から漢字が伝えられた」と、私は
展示の度に、話してきた。「その頃言葉(音)はあったが、文字(形)はなかった。その為こちらの音と中国語の形と符合させた」と。
最古の四大文明だって、個々の萌芽ではなく、伝播だった。この地でも文字は創出されたのではなく、伝播だと考えられる。

 この地には紀元前から渡来人が多くあったという。その中にアラム語やヘブライ語を使う人がいてもおかしくない。
「アラム文字は、紀元前600年頃から、紀元後600年頃まで、中東各地、広範囲に亘って普及した。時代、地域によって、非常に
多くの字形があり、アラム文字から派生した他の言語の文字も、非常に多い」と、ウイキペデイアにある。アラム語、ヘブライ語は
フェニキア文字から派生したものであり、ギリシャ語もフェニキア文字を発展させたもので、後のラテン語、ローマ字に繋がる。

 言葉(文字)は所により、変化する。この列島で、アラム文字、ヘブライ文字を変化させて使ったと、考えられなくもない。
アラム語、ヘブライ語に酷似した漢字、あるいは一部分が酷似した文字を、中国漢字の中に探していったものと、考えられないだろうか。

 中国では紀元前200年が、戦国時代末の秦から、前漢への移行期。文字は鋳刻文字(青銅器文字)から手書き文字(古隷)へと
劇的に替わった。
 多(タ)、千(チ)、天(テ)、止、外(ト)、不(フ)、散(サ) など、青銅器にも鋳刻されているが、字形は円く、文字も少ない。
青銅器文字は上層の極く一部だけの人が関わったが、漢代になると、新しい時代の息吹と共に、手書き文字は勢いよく多くの階層の人に、
拡がって行き、この地に伝えられた時も、縦、横、直線的な字形は、アラム語、ヘブライ語と突き合わせることが、至極容易だったし、
  よく似た部分を捉えて簡潔に表現することも可能だったろう。

 日本最古の出土文字は、5世紀末の稲荷山古墳太刀銘文や、船山古墳太刀銘と言われている。中国語とともに、獲(ワ)加(カ)多
(タ)支(ケ)(ル)や 牙(ム)利(リ)弓(テ)など、人名も刻まれている。「ワ」に「獲」を当てている。
初期には「古隷」を当てていたものが、中国漢字そのものが、形声、会意、仮借等の造字法により、どんどん増えてゆき、それを
受け入れたこの地でも、同一音を表す漢字は多くなり、8世紀の万葉仮名に至っては、当て字のオンパレード。すべての言葉に漢字が
当てられ、このことは子々孫々、大いに悩むところとなっている。

 草書については、前漢の居延簡にすでに見られるし、3世紀の楼蘭残紙にも数多く書かれている。けれど草書体の確立となると、
やはり唐代だろう。数多くの草体の中から、アラム文字、ヘブライ文字の草体に多少とも類似の文字を選び、ひらがなとしたのだろうか。
2016.10月 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 波留久佐乃波斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)ー木片に書かれた650年頃の文字が見つかっている。一音一字。手元の万葉集
では一音一字から進んで、友、神、隅、山、春、草、青など二音一字の漢字と共に、香聞安良武(かもあらむ)、知跡言莫君二(しるといわなくに)、
成益物乎(ならましものを)等々すべて訓読みの文字が並んでいる。中国漢字は本来音読みなのに、訓読みとして、文字は使われている。
漢字を訓読みしている最古の例は上述の稲荷山古墳出土の太刀銘文や、船山古墳太刀銘にある、獲加多支(ル)や 牙利弓など。

 この頃の人々が急に訓読み言葉を使い始めたということではなく、当時一般的に話し言葉としては、使われていたということだろう。
400年代以降は古墳の時代で、秦氏など渡来人集団が活躍している。2〜300年代は卑弥呼の時代。筑紫(九州)、出雲、越(日本海側)、吉備、
大和(太平洋側)では、半島の人々との交流が盛んで、特に百済(くだら、663年滅亡)や加羅(伽耶、562年に滅亡)とは長く深い繋がりが
あった。今日、百済語と日本語と似ているとか、加羅の言葉と同じとか言われているが、訓読みの言葉(話し言葉)に漢字を当てはめて
いったのは、半島の人達であったと思う。もっと遡ってBC1〜2世紀頃は、東南アジア、中国長江一帯そして半島と列島は一大海洋圏を成して、
言葉も理解できたという説もある。更に中国のBC5世紀頃の春秋時代、呉人や越人が、相次ぐ戦火を逃れて、越の国に到来したという話もある。
これはもう青銅器文字の時代になるので、その話し言葉まで類推するのは無理だろう。
そのような言葉が時代により場所により、変化に変化を重ねて、連綿と日本列島では今も使われている。

 半島では663年に百済が滅亡し、高句麗も続いて滅亡、統一新羅が半島の統治となり、900年代には高麗が取って代わり、1392年には李氏
朝鮮が支配し、現在では北朝鮮と韓国に分かれている。1400年以降ハングルが日常語となっている。遠い昔一緒に使っていたかも知れない
言葉は埋もれてしまったのか?
 深い関係のあった百済の滅亡を目の当たりにして、650〜700年代の人々はそれまでの「倭」という名から、「日本」に切り替え、独自路線を
歩み始め、取り組んだのが古事記(712)、日本書紀(720)、万葉集(806)の編纂だった。万葉集の訓読み語は、平安朝には大和言葉として、
古語辞典に収まり、私たちは全く何の考えも無く、当然のように訓読み言葉を流暢に使っている。改定 2023. 3月